シンフォギアG

 今期最大のコンテンツであるところのシンフォギアG。放送前は、一期の時のあの熱病にうかされたまま奏でられたようなあの凄まじいグルーヴが消え失せてしまっているのではないかという懸念があったものですが、いや、泥臭いところはシェイプアップされているものの、熱量こそそのままにエンターテイメントとして鋭利に研ぎ澄まされていて非常に見ごたえのある作品に仕上がってますね。
 OPのロゴ、キャラ絵がシルエットになってそれがそのままロゴに入る『万能文化猫娘』みたいな時代錯誤な演出も実にシンフォギアらしくてチョーイイネ、サイコー!

 以下はシンフォギアG最新放送分のネタバレが含まれる。未見の方はご注意されたし。

 先日友人のにょろにょろ師匠と喋っていて、彼の友人の弁において「翼とクリスのキャラはリリカルなのはのフェイトちゃんを分割したみたいな役割」という示唆を得た。言い得て妙である。他者に依存するがあまり主人公と対立し、最終的に仲間になるところを見ると、なのは一期序盤の「本当にこれ必要だったの?」というシーンの代わりにそれぞれのヒロインにスポットを当てた作りになった、という考え方ができる。原作の上松さんはリリカルなのはシリーズに関わっている人で、やっぱそういう部分参考にして話作ったのかなーなどと、勘ぐりがたくましくなってくるものである。

 だが、一つ待って欲しい。強依存。そのテーマを踏襲することに、一つ疑問がある。
リリカルなのは』一期・二期のフェイトちゃんおよび、『神姫絶唱シンフォギア』一期における翼さん・クリスちゃんにしても、彼女らの強依存という性質自体に、なんらの解決も提示されてはいないのである。過去の依存対象者から決別することは確かに新たな一歩である。感動的であることは論を待たない。フェイトちゃんは確かに、なのはさんの名前を呼んだ。翼さんもクリスちゃんも、響がつないで結んだ。だがそれらは依存の対象がすり替わっただけであり、そこから脱却するためのエクスキューズが存在しない限りは、また同様のことが起こるのではないかという疑問がつきまとっていた。

 リリカルなのはにおいては、フェイトちゃんの強依存というものが解消される結局描写は存在しなかった。なのはとの信頼関係が成立したが、その先へ踏み出す彼女の姿は視聴者に提示されていない。Strikersにおける活躍を見るにおそらくはカメラの映ってないところで彼女は人との付き合い方のようなものを習得していくのであろうが、俺はそこが見てみたかった。

 なのはA’s(テレビ版)はそれ単体では完璧な作品だと思っているのでフェイトちゃんに関するそういった描写がなかったところでそれを作品の短所と言う気はさらさらないが、(おそらくは無理に挟んでも他の要素がおざなりになっていたことだろう)個人的な感情において、是非見たいと思えるところではあった。

 だがしかし、なのである。シンフォギアGの文化祭絡みのエピソードにおいてクリスちゃんや翼さんが友達を作っているのを見て、思わず涙腺が緩んでしまった。立花響という個性や聖遺物(これにまつわる関係性は一種強迫的である)とはまったく無関係の文脈で彼女たちは支えを得ている。これからも、きっと彼女たちは、新しい関係性の構築に踏み出していけることだろう。

 これは手続き上の意味合いにおいて、立花響を失った場合に対する保険である。保険とはリスクを分散する行為であり、それは時に、響との強固な関係性の持続を否定する意味を持つかも知れない。だから、それを行うことをすなわち成長と呼ぶのは迂闊と言わざるを得ないだろう。だが、これからもし、彼女たちが響を失っても、強く立ち向かって行くことができる。あの、講堂のステージにたった瞬間のクリスちゃんの姿。それが現れたときこそが依存を名乗る文字列の頭についていた「強」の字が払拭された瞬間なのである。それがわかっただけで俺は大満足である。

『神姫絶唱シンフォギア』。この作品は、一人の少女が二人の友人を導く物語であった。では、『神姫絶唱シンフォギアG』。この作品では、おそらくは少女たちの自立を描いた物語ではないか。そんな期待が、この胸のうちに膨らんでくるものである。