【漫画感想】カオス・ナイト
大覚寺花音は狂っている。ほめ言葉ではない。検証すら必要のない厳然たる事実として、私はそう確信している。
『カオス・ナイト』について語る前に、補遺を挿入しなければならない。大覚寺花音は在野の漫画執筆者。すなわちアマチュアの同人描きだ。三カ月に一度開催される同人誌即売会コミティアで、幾度となく名義を変えながら毎度作品を発表し続けており、作品はだいたい買っているのだが、ある時を境にその執筆量が異常なほどに膨れ上がり、毎回コミティアで100ページ超の漫画を二冊発表するなどして、購読者の財布にダイレクトアタックを仕掛けてくる。
それだけ聞くと、「ああ、質より量の人ね」と思われるだろう。当然だ、三カ月で200ページなんて、週刊連載の漫画家並みのペースだ。漫画が本業でもない素人がこなせる執筆量ではない。書くだけなら誰だってできる、そう思うだろう。
ヤツの作品は、ヤバい。密度と濃度がヤバイ。
大覚寺花音はラーメン二郎だ。大覚寺花音は、狂ったラーメン二郎だ。ラーメン二郎を狂わせれば、大覚寺花音が現れることだろう。
『カオス・ナイト』は、その狂った執筆者によって生み出された、イカれた超大作である。超大作ってなんかもっとこう、構想何年!みたいなもののことを言うんじゃなかったのか?なんでこんなものを三カ月で作ってしまうんだ。
SFに、ワイドスクリーンバロックというジャンルがある。以下はウィキペディアからの引用である。
時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄— ブライアン・W・オールディス、『十億年の宴』p.305より 浅倉久志訳
またウィキペディアには、「バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試み」とある。ならば、大覚寺花音はまさに現代におけるワイドスクリーンバロックの正当な伝承者であると言える。
いや、私だって本当はこんなジャンルあてはめ〇×ゲームがしたいんじゃない。私の感受性では既存の概念に結び付けてしか、大覚寺花音を語ることができない。まるで腹話術の人形だ、私の喉からはなんの声も発せられることはない。
歯がゆい。嫉妬した。狂った登場人物に、荒唐無稽な世界観。そしてどんどん加速しながらすべてがつながっていく物語。セリフ回しには理性と機知が通底している。これはまさに自分が同人誌を作っていたころに志向したものではなかったか。
私の話はどうでもいい。作品を語ろう。語れない。何を語っても的外れな気がする。こういうブレーキが備わっているから私はダメなんだ。花音ちゃんみたいに情熱のままに作品に昇華しきれない。
私のブレーキは壊すことができない。だがこの膨れ上がっていく大覚寺花音への感情を、あえて綴ろう。ギアを入れろ。最大まで入れれば、ブレーキなんて、ただの気休めでしかないんだから。シューがぶっ壊れるまでエンジンをふかしてやれ。これで私も狂人の仲間入りだ。
情動がほとばしる前の最後の理性が、これを告げている。ここから先はネタバレを含む。これは私から大覚寺花音へあてたラブレターであって、『カオス・ナイト』を読んだものだけが理解できる符牒である。大覚寺花音について私から伝えるべきことはすべて伝えた。これから『カオス・ナイト』を読む者は自己の判断でここから先の記事を読んでも読まなくてもいいし、『カオス・ナイト』を一生読まない者には永遠に用のない限界怪文書である。それを踏まえることができない者は、即刻退去せよ。ブログを全世界に公開しているからといって、筆者は読者を選べないなんて誰が決めた? そうだろう?
「中高生に読んでほしい」本人がそう言った今回の作品は、王道学園ラブコメめいた景色から幕を開ける。だがこの作品は王道学園ラブコメではない。ラブもコメディもあるが、ラブコメと呼ぶには、他の様々な要素が介入してくる。すべてを列挙することは、不可能に近い。敢えて一言で表すとするなら「エンタメ」それ以上の言葉を用いることは野暮となるだろう。
エンタメ、である。本作品は「俺TUEEEEEEEE系」の要素を含んでいる序盤から中盤にかけては主人公成人が、カオスの能力で、強敵を粉砕していく。これが超絶気持ちいい。論理者と呼ばれる存在に毎度ヒロインのさきが狙われるのだが、どんどん出てくる刺客が強くなっていく。「えっ、今度はこれどうやって乗り越えるの?」「ちょっと待って時間を巻き戻す能力なくなったら詰みじゃん」みたいなのを、いとも簡単に超越していく。
なにが起きているのかは、正直理解できない。だが途方もない説得力が、この漫画には存在する。読者を「うむ、なるほどな」と力技で理解させることができる。
そう、力技だ。この漫画には、様々な系統の特殊能力が出てくる。胃能力、願望力、Kanon、筐体論……、それぞれがまったく違うアルゴリズムによって動作する超能力だ。
だが、クライマックス。大覚寺花音(※作者と同名の作中人物)との決戦で勝負を決めるのは暴力。力技である。このシーンに、この作品のすべてが集約されていると言える。大覚寺花音(※作者)は力技で読者をねじ伏せ、屈服させるのだ。
(その途上でいちいちさしはさまれるセリフ回しがいちいちカッコイイ。
「サクヤ、この戦争が終わったら結婚しよう」
「それって戦争が終わる前に言うんじゃない?」
「戦争はまだ終わってないよ 多分ね」
シビれちゃうね)
最終戦争。論理者との対決シーンである。ここで論理者がヒロインを付け狙っていた理由があかされるとともに、論理者はカオスの力で、大覚寺花音(※キャラ)の人生へ転生することになる。
(この時のセリフがまたシビれる。
「幸せなのも悪くないぜ」)
論理者が転生した先である大覚寺花音は、巻末のキャラクター紹介で「様々な外世界から無限に転生者の人格や欲望を招き入れて浄化する「歩く修道院的な性質をもっており(後略)」ということがあかされる。
ええっ、なんでそんな重要な話本編で全然触れられてないの?!
その理由は明白だ。
「なんなのかわからないし、理由も特にないんだと思う」
成人がテキストの胃能力を無効化したとき、自分の能力「カオス」について言及した場面。
「これは完全に無意味な裏切りですわ」
章9第 トイナスオカにおいて、成人たち一向に牙をむいた大覚寺花音(※キャラ)が放ったセリフ。
意味なんてないのである。娯楽として楽しければ。読者が幸福になれば。それでいいのだ。一見諦念ともとれる情動を大覚寺花音(※作者)は見事エンターテイメントに昇華した。成果物が面白ければそれでいいのである。設定を取捨選択することに意味などない。大覚寺花音(※作者)のこの無意味なショー/あるいはカオスの力によって、読者はえもいえない充足感を得ることになるのだ。
抜群の物語が読みたい。この私の欲望は、こうして大覚寺花音(※キ作ャ者ラ??)によって救済された。