令和を迎えたのは田園都市線の電車の中だった。つり革に身体の重みを預けながら読書をしていたところで、近くの乗客がその連れに「もう令和だよ!」と言っているのが聞こえた。携帯電話の時計を確認すると0が三つ並んでいる。新時代の幕開けなんて、実生活から見ればこの程度のことだ。

 元号なんて使いづらい制度に関してはなんら興味がなかった。だが、30年と少しの間、この国の象徴を勤め続けた老人がその任を解かれるということは、素直に目出度いと思う。それは裏返すとまた別の人格が同様の呪いを身に受けて退位までの何年になるかわからない日々を送る暴力の開始を意味するのだが、今はそれに目を閉ざしているとしよう。

 さて、ブログなんて何カ月ぶりに書くだろう。こういうのは段取りをうだうだと考えるよりも、書こうと思ったときに書き始めてみて、違和感があればやめればいい。それだけのことに気づくまで、平成をまるまる使ってしまったことになる。回り道を若いころは取り返しのつかない失態と忌避していたものだが、この歳になるとそういったことがすべて雑に処理できるようになったのは、成長と呼んでやってもいい。

 今日は大学時代の後輩に、一年ほど貸していたギターを返してもらいうため渋谷へ行った。軽音サークルの後輩で、入学時からかなり上手く、いまだにバンド活動を続けて精力的に音源を発表したり、ライブイベントに出演したりしている。音源の質も高く演奏力も確かなのだが、もっとはっきりと売れるためのチャンスの糸口をつかみかねているらしい。最近自分もちょくちょく音源を作ろうとしてし損ねているので、頑張っている人間と時間を共有するのはいい刺激になる。

 その後は新宿に繰り出して、文筆仲間の友人とお茶をしながらヒップホップの話や映画の話、創作の話をした。今彼は、人生の転機に差し掛かっているらしく、年長者らしくなにかアドバイスのようなことを言おうと思ったが、から回って頓珍漢なことばかり口走ってしまった気がする。ともあれ、彼も創作を大変に頑張っている。こうして平成最後の一日は、期せずして昭和の残党として若者の背中を押す老人の役割を演じる一日となった。

 久しぶりにブログエントリの編集フォームを開いてみたのも、そういうわけである。才能という信号が流れれば、どんな凡庸で、この歳まで燻っていたシナプスも、スパークせざるをえない。見続けていれば消えないはずの夢は、老化による視力の低下に伴いその姿をうすぼんやりとさせてきたが、久しぶりにその輪郭が照らされた気がした。

 改元とは生活レベルでは一つの区切りでしかない。前回の改元の時は、母の乳を飲みながら能天気に涎を垂らしていた。今回は、この区切りに、何かを賭けてみるのも、いいのかもしれない。

【予告】

 消費したけど感想記事にしていないものとその備忘。
 感想記事を書くことを約束するものではない。

〇ダンロン
ダンガンロンパ
・スーパーダンガンロンパ
・ニューダンガンロンパV3
 大変によかった。V3の禁じ手感、続けざまにやったからか自分はかなり楽しめた。キャラクターがみんな魅力的でよい。

〇えっちなやつ
・英雄戦姫
 中途。インターフェースが悪い。ゲームとして面白くなってくるのが終盤に差し掛かってからだけど、この面白さをなぜ序盤に味わわせてくれることができなかったのか。
穢翼のユースティア
 途中で他のゲームに浮気してしまった故まだ序盤。

〇映画
ハン・ソロ
 オーラ・シング……
名探偵コナン ゼロの執行人
 初コナン映画。象徴と対比の連続。
リズと青い鳥
 ポエムを書くことを要請されているような気がする。
仮面ライダーアマゾンズ
 生きろ。

〇その他
ガンプラについての雑感とか

【映画感想】ニンジャバットマン

「和製作品にはないものが観たくてアメコミ映画を観ているのに、わざわざ和製作品で見たようなことをバットマンでやるのか」
 劇場で予告を観たとき、正直に言うと、そう思った。

 私はバットマンに関して言うと、完璧ににわかだ。ノーラン三部作が流行ったころに観ていたくらいで、過去の映画作品も観てはいるが、ほとんど幼少期だったのであまり記憶にはない。原作シリーズも読んだこともなければ、ジャスティスリーグもよくは知らない。(バットマンが主人公ではないが『ヒットマン』シリーズは読んだ。私怨でトミーに複雑な感情を抱いたバットマンもまた魅力的だった)
 それでも不思議なもので、自分のような半可通にも、心の中には「バットマン性」みたいなものが存在する。
 金持ちだけど正義の心を身に宿し、泰然と戦うヒーロー。落ち着いた大人の肖像。カッコイイ大人という印象が染みついている。

「不殺」という点に関しては、あまり感心していない。というのも初期のバットマンはそのようなお題目は掲げておらず、悪人を容赦なく殺す場面も見られたそうで、それが時代の流れによって、現在イメージされているような不殺を身に着けていったようだだ(この点に関しては伝聞である)。バットマンという人格について、悪人を殺さない、という必然性があまり感じられないということも強い。今回のバットマンについては、その点を大きく扱っていなかったことも、個人的にはポイントが高い。

 閑話休題

 だから、今回はだいぶコミカルで荒唐無稽な面が全面に出ていることを予感させる予告を観た段階では、自分の中のバットマン性を毀損するのではないかと、多少身構えながら挑んだ。
 はっきり言おう。杞憂だった。
 正直ブルース・ウェインのキャラデザが原作版孤独のグルメ井之頭五郎にしか見えないものではあったが、それでもバットマン自身のカッコよさは少しもイメージと相違がなく、見ず知らずの民のために身体を張るヒーローとして屹然と存在してくれた。
(ロビンが変なちょんまげ姿で猿とイチャコラしているところはげんなりしたが)

 破天荒さ、という点をバットマンではなくヴィラン側に設定しているのも心憎い。ばかばかしさの大概の箇所は、ヴィランたちが担っている。それもアメリカのヒーローとヴィランが戦国時代にタイムスリップするという筋の中でいきいきと機能している。
(猿の組体操という一部の例外についてはまあ、という感じだが)

 見る前に抱いた不安を払拭してくれたという意味で、非常に良い映画体験だった。

 また本作の魅力は、画面の美術的な構成にあると言える。このあたりはまあ見ればわかる程度の話ではあるのだが、観賞時にあの日本的意匠(という言葉が適切かはわからない)の施された背景が開けるように明るく写実的な画面を獲得する様は、かなりはっとさせられた。まあ、この件については詳しい人がたぶん書いているだろう。

備忘

 確かソラリス合同誌の打ち合わせの時だったと思う。目白のファミレスで俺と勝子を含む四人ほどであーでもないこーでもないとやっていた。
 店内が禁煙だったので、勝子と煙草を吸いに出た。昼休憩中の中華料理屋の店前の灰皿を利用させてもらってだらだらしていると、身なりのよさそうなおばさんが、道を尋ねてきた。なんでもおばさんは教員で、教え子がホームパーティをやるのに呼ばれたのだという。
 おばさんの手に下げられたビニール袋の中には、たくさんの缶ビールが。俺と勝子は下心丸出しで、マンションの名前をスマホで調べて、丁寧におばさんを案内した。
 おばさんが「お礼にちょっと参加していきなよ」と言うので、しめしめ、とばかりにエレベーターに乗り込んで、パーティが開かれているという屋上に着いた。そこでは、丘サーファーみたいなあんちゃんたちがパリピっぽいBBQを繰り広げていた。
 俺と勝子も、まあお察しの通り陰キャである。顔を見合わせて、なにも頂戴せずに、へらへらうすら笑いを浮かべてから、すぐにマンションを辞去した。
「ちくしょう、ただ酒が飲めると思っていたのに」
 勝子が言った。俺も同じ気持ちだった。

追悼

 死にかけていたやつが死んだ。これはそれだけの話だ。



 受け止めきれていない現実の話をするには、好きな映画をつまらなそうに紹介するような口ぶりが要求されるのかもしれない。そんなしょうもないことを思わずにはいられないくらいには、自分の中でもまだ気持ちの整理がついていない。だからこそ、やつの生への実感の生暖かさが抜けきらないうちに、書いておかなくてはいけないと思った。

 ふざけたやつだった。ふざけてないと死ぬ病気か何かだと思っていたが、これはあながち間違いではないだろうと思う。気力が許す限りふざけ倒す姿が目に浮かぶ。きっと今頃もあの世で「オラは死んじまっただ〜」なんて歌いながら、へらへら笑っているだろうと思うが、これは単なる願望だ。

 そもそも、人が死んだからって情緒が不安定になって、こんな長文を垂れ流していることが滑稽である。が、んなこと知るか。俺は俺のやりたいようにやる。



 三月の末頃だったと思う。アルコール依存症からくる内臓の疾患で体調を崩したやつは、会社に出れない日が続いていた。碌に食べ物も喉を通らず、煙草を吸いながら壁に張られた十時愛梨のポスターを眺めているだけの日々だった。野菜ジュースやウィダーインゼリーなどを勧め、やつの好きだった『宇宙よりも遠い場所』の「食べないと体力が落ちていくばかりだ」という意味の台詞を引用した。これを繰り返し、言い聞かせていた。それから少しずつ、野菜ジュースを採るようになり、サンドイッチなどを何回かに分けて食べるようにしていたようだ。

 欠勤が続いたため、それから数日のうちに会社から解雇を言い渡されて、大変に落ち込んでいた。俺と電話しているときも、お茶か何かをパソコンにこぼしてしまって、起動できなくなったと嘆いていた。中にデレマスの双葉杏諸星きらりの十年後を描いた物語が、結構な分量入っていたという。乾かしてから起動すると言っていたが、それはかなわなかったようで、専門店でのデータのサルベージを勧めたが、金がないから、生活保護の際に差し押さえられなければそうする、と言っていた。「差し押さえられそうだったら、着払いで送ってくれればかくまう」と言っったが「壊れてるから大丈夫でしょ」と返される。このころはしきりに「死にてえ」と言っていた。カーテンレールで自殺を図ったのもこのころで、そのあたりから俺は三日に一度くらいの頻度でやつと電話していた。他の友人にも、ちょくちょく電話していたというが、俺も少し前に会社を退職し暇していたため、おそらく一番多くの時間、やつとしゃべっていたのではないかと思う。

 だいたいは『宇宙よりも遠い場所』の話やそれに関連づけて『南極料理人』の話、『紺田照の合法レシピ』のドラマの話、にじさんじを中心としたバーチャルユーチューバーの話、あとは暇に任せて「二人でハウスシェアでもするか」とか「『お母さんの財布からお金を抜きましたー!』ってモキュメンタリー録ってクズ系YouTuberやろうぜ」とか、「ドラえもん合同作ろう」「デレマス合同作ろう」みたいな与太を飛ばしたり、しりとりなんかをしていた。特にコンテンツの供給ペースが異様に速いにじさんじは、毎回話題に挙がったと思う。やつはかえみと推しだったが、他のライバーも平等に好きだった。おかげで俺も、バーチャルライバーには、やたら詳しくなった。

 他にはげんげんや、鳩羽つぐの話も、よくしたと思う。松本人志のドキュメンタルの話もした。特にげんげんやクロちゃんは二人で物まねを披露しては、げらげら笑っていた。げんげんの更新が一カ月ほど止まっていることを、お互い嘆いたりもした。物まねと言えば、『宇宙よりも遠い場所』の玉木マリの「わかんないんだよねっ」というセリフを邪悪に改変して「わかんないんだよねっ馬鹿だから、わかんないんだよねっ」と、あおり合ったりもした。やつは特にこれが気に入っていたようで、会話に、隙あらばさしはさんでいた。

 それからは生活保護や傷病手当の書類を集めて、手続きを進めることになる。生活保護の申請に関しては法テラス経由で弁護士を使えば費用は法テラス負担になることなどを伝え、実際法テラスに相談してみたが、弁護士があまり乗り気じゃないらしく、先に役所に行けと言われ、一人で行っても生活保護がおりるか不安だと言っていた。気力がなく家からも出れない日が続き、病院に行けと言っても、「今日も行けなかった」と言う答えを聞くことが多かった。その後、あまりに動けないため救急車を呼んで、入院することになる。病院にもいけて、ケースワーカーにも相談でき、生活保護を受給するための理由づけにもなると計算してのことだった。四月なかごろのことだ。液体ばかりの病院食の画像をツイッターにアップしていた。

 これは、担当の医者と折り合いが悪かったとかで、一週間ほどで退院させられてしまい、また生活保護の書類を集めることになる。飯もまともに食べられず、体力がめっきり落ち込んでしまっており、ちょっと歩いただけで息切れがする、と言っていた。実際、電話していても、何もないときに息が上がっているなと思うこともあった。そんな体力で書類を集めるのは、大変だったろうと思う。解雇された会社に何度も連絡したり、近くはない役所に何度も足を運んでいたようだ。

 書類集めをする体力がないときは、一日中なにもしないでぼーっとしている日が続いていたそうだ。睡眠時間も変則的になり、二時間以上は眠れないと言っていた。その短い睡眠を一日に何度か繰り返している、と。誰かに電話する以外は、好きだったYouTubeやアニメも見る気力もなかった。あれだけ好きだったにじさんじの話も、俺が「昨日放送でこういう話をしていた」と報告するばかりになってきた。だが、「死にたい」と言うこともはもうなくなり、「はやく元気になってみんなと焼肉行きたい」と言っていた。やつの住んでいた東中神や、実家のある福生周辺のうまい店(しようちゃんというトンカツ屋、めだかタンタン、伝説のタンメン屋ことしゃんタンメン)を教えてもらい、よくなったら何日か泊まりに行くから、二人で毎日うまいものをたくさん食べようと約束していた。俺がしきりにおいしいと伝えた松屋の「ごろごろチキンカレー」も、食べたいからはやく良くなりたいと言っていた。

 このころだろうか。差し歯が取れて出血が止まらず、ワイシャツを一枚ダメにしてしまったり、「なんかいい匂いすんだけど……わっ、煙草の火ソファについてた!」とやらかしたり、アルコール依存症のため医者に止められている酒を飲んでしまっていた。また、食欲が出てきたからと、カップヌードルを食べたら、だいぶ体調を悪くしていた。食欲に身体の方が追い付かなかったのだろう。かなり心配だったが、空寒い前向きぶりっこな答えを返すことしかできなかった。

 GW中は、実家に帰ってご両親と過ごしていたそうだ。人の目があれば自然に死ぬことはないだろうと思って、そのときはひとまず安心していた。この少し前くらいから、電話中に突然意味のわからない単語を言い出してはすぐに気づいて「あっ、やべえ、うわ言が漏れた。最近多いんだよな」と言ったり「最近夢の中で、自分同士で会話している」と言うようになっていた。

 最後に電話したのは5月7日だった。この日、いったん自分のアパートに帰ったそうだ。俺は『リズと青い鳥』を見た当日だったので、その話をした。やつも「元気になったら観たい。観たい映画がいっぱいある」と言っていた。そのときは7日に役所に行って、8日には病院に行く、と言っていた。生きるために、きちんと行動を起こしていた。

 ここからはやつの妹さんからうかがった話だ。9日に黄疸が出ているとかで再入院。本人は意識もはっきりしており、妹さんの名前を呼んだり、受け答えができる状態だったそうだ。その翌日の10日に、ご家族に看取られて亡くなり、12日に火葬された。イリヨちゃんのところに妹さんから連絡がいき、とまる勝子の訃報が知れ渡ったのがこの日だ。

 以上が、やつにまつわるここ一カ月と少しの備忘録である。電話している最中も死の香りが受話器を通して漂って来るありさまだったが、不思議と、「オイオイオイ、死ぬわアイツ」という気持ちは襲い掛かってこなかった。「自死はしない」と本人も言ってくれており、俺自身、「生活保護が通って適切な治療を受ければこっちのもんよ」くらいにしか、考えられなかった。当然その先に舗装されていた可能性に目くばせできないほど、俺自身の認知も歪曲していたということだが、そんな可能性、考えてどうなる? 生きるための手続きを、動かしづらくなっていく身体で行ってきたあいつの声を聴いて、どうしてそんなことを想像できる?



 やつとの思い出は山ほどあるが、とまる勝子という個人を認識したツイッターで、なんでフォローしたのかもよく覚えていない。初めて会ったのは確か2011年の春の文学フリマだった。この日勝子は、結構な額の入った財布を落としたといっていた。それからしばらくは会うこともあまりなく、ツイッターでたまにふぁぼりあうくらいの関係だったが、三年か四年ほど前に、山像さん(このころはまだベジタリアンではなかったか?)と、朽木さん、イリヨちゃんの五人で、池袋の貴仙という焼肉屋で飯を喰ったのが、久々に会った日だったと思う。楽しい夜だった。ひたすら上等な肉を食らい続けたり、味蕾の全滅を覚悟するほど辛いソースを舐めて喜んだりしていた(このソース、山像さんはケロッとした顔で舐めていた)。

 それから俺もコミティアに顔を出すようになり、やつと遊ぶ機会が増えた。
 誰がいたかは思い出せないが、錦糸町ガルパン劇場版を見に行ったこともあった。俺がエピソードの時間配分に違和感を覚えて(だってあの映画、最初の約三十分でエキシビジョンマッチ、その後約三十分戦車から降りたエピソード、そっから一時間近く戦車戦っていう事故みたいな作りなんだもん!)時計をちらちら眺めていたのを、見終わった後に行った居酒屋だかファミレスで、「トイレ行きたくて時計見てんのかと思った」と言っていた。
 いつかのコミティアの前日に高田馬場に山像さん、鷹林ケイちゃん、清水のおニュロたんと四人で虫を食べに行ったとき、俺が戯れに持ってきたジターリングを勝子が店で回していたら、うるさすぎて店員に注意されたなんてこともあった。勝子は、結局虫は食べなかったと思う。
 清水のおニュロたんと三人で、鶴見にブラジル料理を食べに行ったこともあった。ひたすらの肉と油に圧倒されながら、「エクストリームって聞いてたけど案外ふつうに喰えるな」と言ってインカコーラを飲みながら、ピザやビフカツを食べた。
 ブリリアンス・ルナ先生と山像さんと四人で新宿の蕎麦居酒屋みたいなところで、勝子が酒を飲めないのをしり目に飲酒したこともあった。この日勝子はパチンコでガルパンを打っていて、遅刻してきたのだと思う。
 コイちゃんと清水ニューロンと四人で焼肉に行ったこともあった。その後喫茶店に移動する中、新宿の路上でマスキングテープをびらびら広げながら走って遊んでいた。
 清水ニューロンの誕生日を祝って、ゲゲゲの鬼太郎の実写版をみんなで見たこともあった。山像さんと三人で、池袋でラブライブ!の映画を見たこともあった。

 もう時系列もなにもわからない。追憶だけしかここにはもはやない。



 とまる勝子は、文芸同人サークル・スペクターズ!の大切なメンバーでもあった。現状二冊しか本を出していないサークルだが、やつがソラリス合同誌に寄稿したプリパラとのマッシュアップは、大変評判が良かった。ソラリスの海がパラ宿に来てアイドルになるという話は、奇想というよりほかないアイデアだったと思う。内容もプリパラ本編の空気感を存分に感じることができて、『ソラリス』と『プリパラ』双方に対する深い洞察がうかがうことができる。勝子自身は「その後の放送分で設定が更新されてしまったから、いつか書き直したい」と言っていたが。

 結局、電話した中で生まれた企画であるドラえもん合同は、一緒に作ることができなかった。あいつ主導のアイマス合同に、絵本作家になった森久保乃々が当時のアイドル仲間たちを懐古する話を寄せることも、できなかった。
 とはいえ、あいつが生きているうちに一緒に本を作ることができたことは、多分良かったのだろう。今はまだそれくらいしか言うことができない。

【映画感想】皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ

 もう一カ月くらい前になるけど、見てきました。
 ティザー公開されたときから見たい見たいと思っていたんですが、ツイッターでほめてる人がいて、調べてみたらまだ池袋でやってるということだったので大戸又さん(アストロノーカやチャイナ・ミエヴィルの二次創作をやってるナイスガイです。海外SFもめっちゃ詳しい)と一緒にレイトショー言ってきました。




 以下、ネタバレ含む。

 イタリア初のヒーロー映画、批評性はバッチリだ。
 だがしかし、あえて言いたい。『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』はヒーロー映画という枠の中でのみ語られるような作品ではない、と。一人の男(或いは、聖人)の懊悩と葛藤、そしてその克服を描いた映画であり、その結果としてたまたまヒーローものになった。これは、そういう類の物語だ。

 主人公がスーパーパワーを持つのは、彼が宇宙人だからでも、特殊な蜘蛛に噛まれたわけでも、まして父親によってサイボーグに改造されたからでもない。川に廃棄された放射性物質によってである。はっきり言って、雑だ。目の肥えたヒーローファンならガッカリすることは間違いない。かくいう自分も、その一人だった。
 だが、そんなヒーローオタクも、すぐに気づかされるだろう。一人のヒーローの誕生に劇的に作用するものは、スーパーパワーを獲得する過程である必要はないことを。力を得ることはほんのささいなきっかけの一つに過ぎない。彼をヒーローとして屹立させるのは、もっと大切なこと。そう、人間同士のドラマなのだ。
 この映画では(鋼鉄ジーグを題材にしているにもかかわらず)オタク臭い「見たこともない設定!」「カッコイイアクション!」「ヒーローの大活躍!」なんか、どうでもいいのだ。重要なのは、友達も恋人も家族もいない、ただ生きることに必死な、一人の男のひたすらな人間臭さなのである。

 彼はヒーローとしては、かなり弱い。銃で撃たれた傷は一両日で完治もするが、切られた足の指はくっつかない。常人離れした怪力と治癒能力を持っているが、痛みはあるし、血も流れる。しかるべき兵器と殺意を用意したら、殺すことはそう難しくないだろう。
 だが、それでいいのである。なぜなら、これは不死身の男のスペクタクルなんかではなく、ちっぽけな一人の中年男の、孤独な苦闘なのだから。

 そしてヴィランもまた、小物としか言い様がない。驚くべきほどに小物である。
 かつてバンド活動でテレビに出たことがあるというのが唯一の誇りの、YouTube のカリスマになることを夢見る街のごろつきだ。他のごろつきも、一応は彼を主軸に据えているが、内心ではなめ腐っている。彼は、主人公の登場によってもともとまっとうとは言えなかった人生を、さらに転落させられていく。
 物語中盤で上部組織であるマフィアに粛清され火炎放射器で焼かれた彼は、川に落ちる。そこで主人公同様に放射性物質によってミュータント化するのだ。そして川から上がり、自身がスーパーパワーを手に入れた彼が最初にやることは、YouTube に投稿する動画の撮影である(その内容は、マフィアへの報復としてアジト襲撃だが)。
 ヴィランも主人公同様、格闘の素養はない。最終決戦は、はっきり言って子供の殴り合いである。だが、この作品の登場人物に高等な格闘訓練を受けた人物は登場しない。だから、これでいいのである。仮にスタイリッシュなアクションを見せられても、茫然と見守るほかないだろう。そういった、他の映画では瑕疵となりかねない箇所が、随所で作品のリアリティを力強く担保している。

 拾って来るピースも、いちいち作品に対する相性がよい。
 オタクショップの試着室でサカろうとしてヒロインの機嫌を損ねる主人公なんて、見たことがあるだろうか。ティーンであれば情動、で済まされるようなシーンも、中年男性がやれば、性暴力としての側面が生臭さにえづきそうになるほど強調される。さらに言えば、ヒロインは精神的に不健康で、カウンセラーや父親から性的に眼差されてきた過去を持つ。ヒロインが主人公をヒーローとして慕っている、という前提があったとしても、かなりカッコワルいシーンだ。生理的嫌悪を催すこともやむない場面と言える。それも、性欲を持った男性としての汚らしさをもった主人公であることを、如実に我々に教えてくれる。

 また、廃墟になった遊園地で、ヒロインを乗せたメリーゴーラウンドや観覧車を、主人公が怪力で動かしてやるところなどは、スーパーパワーを日常に落とし込んだミニマリズムと同時に、どこか、儚さを称えている。まるで、二人の蜜月が長く続かないことを予感させるように。

 監督は、ハリウッドで映画の脚本を学んできたそうだ。道理で脚本が本当によくできている。モチーフの繰り返しや、一つのセリフや何気ないシーンが後々に効いてくる伏線など、丁寧な仕事だ。
 だが、はっきり言って、恵まれすぎた豪奢なハリウッドの環境では撮影することができなかった作品であると、確信できる。よっぽど低予算らしいが、どこまでそれを加味し計算して描かれたのか、確かなことは言えない。だが、すべてが計算されつくしていると言われてもなるほどと唸ることができるほどに、台詞、演技、画面、小道具。その他作品を構成するすべての要素が、精緻に積み上げられている。
 こんなもの、ヒーローに恵まれた日本やアメリカでは、見ることができないだろう(近年アダルトビデオやアマチュア作品などで、低予算の特撮作品もあるにはあるが、その制約を強みにまで止揚するガッツがある作品は寡聞にして知らない)。

 この作品、レンタルが開始したら、ぜひいろんな人に、特に和洋問わずヒーローものが好きな方々はもちろん、濃厚な人間同士の思想のぶつかり合いに飢えた方々にぜひご覧になっていただきたいと思う。


 主題歌もまたよい。メロディぶっ壊しているけど。

ケン・リュウ合同誌

 また一年くらい、更新の感覚があく。このブログを見ている方は大概がtwitter見てらっしゃると思うのでもはや言う必要すらないんだけれども、ケン・リュウ合同誌、文フリで売ります。
 今回もぷにやかたわちこまる先生が素敵な表紙を書いてくださいました。
 みんな、買ってね。