追悼

 死にかけていたやつが死んだ。これはそれだけの話だ。



 受け止めきれていない現実の話をするには、好きな映画をつまらなそうに紹介するような口ぶりが要求されるのかもしれない。そんなしょうもないことを思わずにはいられないくらいには、自分の中でもまだ気持ちの整理がついていない。だからこそ、やつの生への実感の生暖かさが抜けきらないうちに、書いておかなくてはいけないと思った。

 ふざけたやつだった。ふざけてないと死ぬ病気か何かだと思っていたが、これはあながち間違いではないだろうと思う。気力が許す限りふざけ倒す姿が目に浮かぶ。きっと今頃もあの世で「オラは死んじまっただ〜」なんて歌いながら、へらへら笑っているだろうと思うが、これは単なる願望だ。

 そもそも、人が死んだからって情緒が不安定になって、こんな長文を垂れ流していることが滑稽である。が、んなこと知るか。俺は俺のやりたいようにやる。



 三月の末頃だったと思う。アルコール依存症からくる内臓の疾患で体調を崩したやつは、会社に出れない日が続いていた。碌に食べ物も喉を通らず、煙草を吸いながら壁に張られた十時愛梨のポスターを眺めているだけの日々だった。野菜ジュースやウィダーインゼリーなどを勧め、やつの好きだった『宇宙よりも遠い場所』の「食べないと体力が落ちていくばかりだ」という意味の台詞を引用した。これを繰り返し、言い聞かせていた。それから少しずつ、野菜ジュースを採るようになり、サンドイッチなどを何回かに分けて食べるようにしていたようだ。

 欠勤が続いたため、それから数日のうちに会社から解雇を言い渡されて、大変に落ち込んでいた。俺と電話しているときも、お茶か何かをパソコンにこぼしてしまって、起動できなくなったと嘆いていた。中にデレマスの双葉杏諸星きらりの十年後を描いた物語が、結構な分量入っていたという。乾かしてから起動すると言っていたが、それはかなわなかったようで、専門店でのデータのサルベージを勧めたが、金がないから、生活保護の際に差し押さえられなければそうする、と言っていた。「差し押さえられそうだったら、着払いで送ってくれればかくまう」と言っったが「壊れてるから大丈夫でしょ」と返される。このころはしきりに「死にてえ」と言っていた。カーテンレールで自殺を図ったのもこのころで、そのあたりから俺は三日に一度くらいの頻度でやつと電話していた。他の友人にも、ちょくちょく電話していたというが、俺も少し前に会社を退職し暇していたため、おそらく一番多くの時間、やつとしゃべっていたのではないかと思う。

 だいたいは『宇宙よりも遠い場所』の話やそれに関連づけて『南極料理人』の話、『紺田照の合法レシピ』のドラマの話、にじさんじを中心としたバーチャルユーチューバーの話、あとは暇に任せて「二人でハウスシェアでもするか」とか「『お母さんの財布からお金を抜きましたー!』ってモキュメンタリー録ってクズ系YouTuberやろうぜ」とか、「ドラえもん合同作ろう」「デレマス合同作ろう」みたいな与太を飛ばしたり、しりとりなんかをしていた。特にコンテンツの供給ペースが異様に速いにじさんじは、毎回話題に挙がったと思う。やつはかえみと推しだったが、他のライバーも平等に好きだった。おかげで俺も、バーチャルライバーには、やたら詳しくなった。

 他にはげんげんや、鳩羽つぐの話も、よくしたと思う。松本人志のドキュメンタルの話もした。特にげんげんやクロちゃんは二人で物まねを披露しては、げらげら笑っていた。げんげんの更新が一カ月ほど止まっていることを、お互い嘆いたりもした。物まねと言えば、『宇宙よりも遠い場所』の玉木マリの「わかんないんだよねっ」というセリフを邪悪に改変して「わかんないんだよねっ馬鹿だから、わかんないんだよねっ」と、あおり合ったりもした。やつは特にこれが気に入っていたようで、会話に、隙あらばさしはさんでいた。

 それからは生活保護や傷病手当の書類を集めて、手続きを進めることになる。生活保護の申請に関しては法テラス経由で弁護士を使えば費用は法テラス負担になることなどを伝え、実際法テラスに相談してみたが、弁護士があまり乗り気じゃないらしく、先に役所に行けと言われ、一人で行っても生活保護がおりるか不安だと言っていた。気力がなく家からも出れない日が続き、病院に行けと言っても、「今日も行けなかった」と言う答えを聞くことが多かった。その後、あまりに動けないため救急車を呼んで、入院することになる。病院にもいけて、ケースワーカーにも相談でき、生活保護を受給するための理由づけにもなると計算してのことだった。四月なかごろのことだ。液体ばかりの病院食の画像をツイッターにアップしていた。

 これは、担当の医者と折り合いが悪かったとかで、一週間ほどで退院させられてしまい、また生活保護の書類を集めることになる。飯もまともに食べられず、体力がめっきり落ち込んでしまっており、ちょっと歩いただけで息切れがする、と言っていた。実際、電話していても、何もないときに息が上がっているなと思うこともあった。そんな体力で書類を集めるのは、大変だったろうと思う。解雇された会社に何度も連絡したり、近くはない役所に何度も足を運んでいたようだ。

 書類集めをする体力がないときは、一日中なにもしないでぼーっとしている日が続いていたそうだ。睡眠時間も変則的になり、二時間以上は眠れないと言っていた。その短い睡眠を一日に何度か繰り返している、と。誰かに電話する以外は、好きだったYouTubeやアニメも見る気力もなかった。あれだけ好きだったにじさんじの話も、俺が「昨日放送でこういう話をしていた」と報告するばかりになってきた。だが、「死にたい」と言うこともはもうなくなり、「はやく元気になってみんなと焼肉行きたい」と言っていた。やつの住んでいた東中神や、実家のある福生周辺のうまい店(しようちゃんというトンカツ屋、めだかタンタン、伝説のタンメン屋ことしゃんタンメン)を教えてもらい、よくなったら何日か泊まりに行くから、二人で毎日うまいものをたくさん食べようと約束していた。俺がしきりにおいしいと伝えた松屋の「ごろごろチキンカレー」も、食べたいからはやく良くなりたいと言っていた。

 このころだろうか。差し歯が取れて出血が止まらず、ワイシャツを一枚ダメにしてしまったり、「なんかいい匂いすんだけど……わっ、煙草の火ソファについてた!」とやらかしたり、アルコール依存症のため医者に止められている酒を飲んでしまっていた。また、食欲が出てきたからと、カップヌードルを食べたら、だいぶ体調を悪くしていた。食欲に身体の方が追い付かなかったのだろう。かなり心配だったが、空寒い前向きぶりっこな答えを返すことしかできなかった。

 GW中は、実家に帰ってご両親と過ごしていたそうだ。人の目があれば自然に死ぬことはないだろうと思って、そのときはひとまず安心していた。この少し前くらいから、電話中に突然意味のわからない単語を言い出してはすぐに気づいて「あっ、やべえ、うわ言が漏れた。最近多いんだよな」と言ったり「最近夢の中で、自分同士で会話している」と言うようになっていた。

 最後に電話したのは5月7日だった。この日、いったん自分のアパートに帰ったそうだ。俺は『リズと青い鳥』を見た当日だったので、その話をした。やつも「元気になったら観たい。観たい映画がいっぱいある」と言っていた。そのときは7日に役所に行って、8日には病院に行く、と言っていた。生きるために、きちんと行動を起こしていた。

 ここからはやつの妹さんからうかがった話だ。9日に黄疸が出ているとかで再入院。本人は意識もはっきりしており、妹さんの名前を呼んだり、受け答えができる状態だったそうだ。その翌日の10日に、ご家族に看取られて亡くなり、12日に火葬された。イリヨちゃんのところに妹さんから連絡がいき、とまる勝子の訃報が知れ渡ったのがこの日だ。

 以上が、やつにまつわるここ一カ月と少しの備忘録である。電話している最中も死の香りが受話器を通して漂って来るありさまだったが、不思議と、「オイオイオイ、死ぬわアイツ」という気持ちは襲い掛かってこなかった。「自死はしない」と本人も言ってくれており、俺自身、「生活保護が通って適切な治療を受ければこっちのもんよ」くらいにしか、考えられなかった。当然その先に舗装されていた可能性に目くばせできないほど、俺自身の認知も歪曲していたということだが、そんな可能性、考えてどうなる? 生きるための手続きを、動かしづらくなっていく身体で行ってきたあいつの声を聴いて、どうしてそんなことを想像できる?



 やつとの思い出は山ほどあるが、とまる勝子という個人を認識したツイッターで、なんでフォローしたのかもよく覚えていない。初めて会ったのは確か2011年の春の文学フリマだった。この日勝子は、結構な額の入った財布を落としたといっていた。それからしばらくは会うこともあまりなく、ツイッターでたまにふぁぼりあうくらいの関係だったが、三年か四年ほど前に、山像さん(このころはまだベジタリアンではなかったか?)と、朽木さん、イリヨちゃんの五人で、池袋の貴仙という焼肉屋で飯を喰ったのが、久々に会った日だったと思う。楽しい夜だった。ひたすら上等な肉を食らい続けたり、味蕾の全滅を覚悟するほど辛いソースを舐めて喜んだりしていた(このソース、山像さんはケロッとした顔で舐めていた)。

 それから俺もコミティアに顔を出すようになり、やつと遊ぶ機会が増えた。
 誰がいたかは思い出せないが、錦糸町ガルパン劇場版を見に行ったこともあった。俺がエピソードの時間配分に違和感を覚えて(だってあの映画、最初の約三十分でエキシビジョンマッチ、その後約三十分戦車から降りたエピソード、そっから一時間近く戦車戦っていう事故みたいな作りなんだもん!)時計をちらちら眺めていたのを、見終わった後に行った居酒屋だかファミレスで、「トイレ行きたくて時計見てんのかと思った」と言っていた。
 いつかのコミティアの前日に高田馬場に山像さん、鷹林ケイちゃん、清水のおニュロたんと四人で虫を食べに行ったとき、俺が戯れに持ってきたジターリングを勝子が店で回していたら、うるさすぎて店員に注意されたなんてこともあった。勝子は、結局虫は食べなかったと思う。
 清水のおニュロたんと三人で、鶴見にブラジル料理を食べに行ったこともあった。ひたすらの肉と油に圧倒されながら、「エクストリームって聞いてたけど案外ふつうに喰えるな」と言ってインカコーラを飲みながら、ピザやビフカツを食べた。
 ブリリアンス・ルナ先生と山像さんと四人で新宿の蕎麦居酒屋みたいなところで、勝子が酒を飲めないのをしり目に飲酒したこともあった。この日勝子はパチンコでガルパンを打っていて、遅刻してきたのだと思う。
 コイちゃんと清水ニューロンと四人で焼肉に行ったこともあった。その後喫茶店に移動する中、新宿の路上でマスキングテープをびらびら広げながら走って遊んでいた。
 清水ニューロンの誕生日を祝って、ゲゲゲの鬼太郎の実写版をみんなで見たこともあった。山像さんと三人で、池袋でラブライブ!の映画を見たこともあった。

 もう時系列もなにもわからない。追憶だけしかここにはもはやない。



 とまる勝子は、文芸同人サークル・スペクターズ!の大切なメンバーでもあった。現状二冊しか本を出していないサークルだが、やつがソラリス合同誌に寄稿したプリパラとのマッシュアップは、大変評判が良かった。ソラリスの海がパラ宿に来てアイドルになるという話は、奇想というよりほかないアイデアだったと思う。内容もプリパラ本編の空気感を存分に感じることができて、『ソラリス』と『プリパラ』双方に対する深い洞察がうかがうことができる。勝子自身は「その後の放送分で設定が更新されてしまったから、いつか書き直したい」と言っていたが。

 結局、電話した中で生まれた企画であるドラえもん合同は、一緒に作ることができなかった。あいつ主導のアイマス合同に、絵本作家になった森久保乃々が当時のアイドル仲間たちを懐古する話を寄せることも、できなかった。
 とはいえ、あいつが生きているうちに一緒に本を作ることができたことは、多分良かったのだろう。今はまだそれくらいしか言うことができない。